大判例

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大阪高等裁判所 昭和50年(う)776号 判決

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人を懲役三月に処する。

ただし、この裁判確定の日から一年間、右刑の執行を猶予する。

理由

〈前略〉

所論にかんがみ記録を調査し、かつ当審における事実の取調の結果をも総合して検討するに、原判決は所論指摘のような法令の解釈、適用のもとに被告人に対し無罪を言渡したことが明らかであるが、その当否について判断を加えるに先立ち、本件に至るまでの経緯及び本件当日の状況並びにその間における被告人らの行為の事実関係を原審で取調べた証拠によつてみるに、これらはほぼ原判決が詳細に説示するとおりであつて、当審における事実の取調の結果によつてもなんら左右されるところはない。すなわち、

一本件に至るまでの経緯は、要するに、被告人は当時部落解放同盟(以下解同という)大阪府連合会矢田支部長であつたものであるが、本件被害者とされる岡野寛二らの行動は、解同側との再三にわたる約束を言を構え違えたもので、背信行為と目されてもやむを得ないものがあり、また岡野らは、本件文書の作成者木下淨の推せん人であるが、教職員組合の役員、同僚、学校長からも解同側と話合うよう説得され、しかも本件文書が差別文書でないというのであれば、解同側も双方同数の人数で話し合いをすることに同意していたのであるから、積極的にその解同側との集会に出席して正々堂々と自己の立場、見解を説明すべきであるのに、これをなさなかつたことが明らかである。

二本件における被告人らの行為は、以下のとおりである。

被告人は、原判示のような本件に至るまでの経緯からして、岡野らに対して解同独自の糾弾活動を行うこととし、昭和四四年四月九日朝、矢田中学校において、岡野寛二、金井清に対し、矢田市民館の集会への出席を要求したが、同人らがこれを拒んだので、解同員約一〇名と相謀り岡野らをその意に反してでも同館へ連行しようとして、同日午前一〇時五〇分ころ、矢田中学校職員室において椅子に腰をおろしていた岡野に対し、当時の解同矢田支部書記長泉海節一が同行を促すようにして腕をつかみ、同時に他の解同員二名が岡野の両手を左右から引張つて、足をつつぱり抵抗する同人を立ち上らせたうえ、もはや抵抗をあきらめた同人の両脇を抱え背後から押して校門までの約三〇メートルの距離を連行し、付近に駐車中の自動車に、泉海が乗車を促すとともに岡野を押して後部座席に乗車させ、みずからも同人の左側に乗り込み矢田市民館まで連行し、他方、岡野と同様職員室において椅子に腰をおろしていた金井に対し、被告人を含む解同員三名が洋服の肩辺りを引張つたり、両腕を引張つて立ち上らせたうえ、被告人以外の解同員がもはや抵抗をあきらめた金井の腕を引張り、背後からズボンのベルトをつかみ押すなどして校門まで連行し、付近に駐車中の他の自動車に、被告人以外の解同員一名が金井の腕を押して乗車させ、被告人を含む解同員四名が乗り込み、矢田市民館まで連行した。

同日午前一一時ころから矢田市民館二階第三会議室において被告人を含む解同員約一三名が岡野、金井の両名に対し糾弾を始めた。被告人らは右両名が約束を違えたことを難詰し、その理由を追及したが、右両名が意思に反して連行されたことなどを理由に沈黙したままであつたので、更に泉海が大声で右両名に対し「なんでこたえられんのや、はつきりせんか。」「とにかくものを言え。」「差別者、自己批判せんのか、やらんのやつたら徹底的にやつたる。」「もの言え、差別者、あほんだら。」「差別文書やないということをなぜ言わんのか。」などと言つて非難攻撃した。午後一時三〇分ころ休憩に入り、金井が喫煙し用便を足しに行つた際、泉海は「生意気になんじや、お前は、煙草なんか吸いやがつて」「お前はどこへ行くんや。川本さんちよつと見とけ。」と言い、解同矢田支部副支部長川本竜子をして金井を監視させた

午後二時三〇分ころ、糾弾場所を同館三階大集会場に移し、同所において、被告人らが参集してきた地元住民や解同員約三〇名に対し経過説明を行い、午後三時過ぎころ、泉海を含む解同員七名が岡野ら側の窓口とされた玉石藤四郎を呼びに行つたが、その間、被告人は「こいつらもの言わんように仕込まれとんのや。どこからもの言わんようにされているのかそのうちに白状さしたる。」「今まで解同が差別やいうて差別でなかつたものはない。お前ら白切るんやつたらどこまでも糾弾する。」「前に認めておきながら、なぜ差別やないと言うてるんや。」などと言つて岡野ら両名を厳しく難詰追及した。

午後四時ころ、泉海を含む解同員七名が加美中学校から玉石を矢田市民館三階大集会場まで連行した。そのころ地元住民ら約七、八〇名が参集していた。泉海は、参集者に対し、玉石連行の経過を説明した後、引き続いて、被告人らは玉石に対し、本件文書が差別文書であると認めること及び泉海は、玉石らと木下との関係の説明などをそれぞれ語調鋭く要求したが、玉石が沈黙したままであつたので、泉海は、「これだけ言うてるのにわからんのか」と言つて玉石の胸辺りを押して傍の黒板に押しつけ、岡野、金井に対しても右同様の説明を要求したが、同人らもこれに応じなかつた。被告人は、玉石に対し、「お前は部落の人が足を踏まれている痛さがわかるか。お前の足踏んだろうか」と言つて同人の足近くの床を音高く踏みつけ、同人があわてて足を引いたところ、「わしが足をあげたら自分の足を踏まれると思つたやろ、こいつは偏見をもつとる。部落のもんは悪いことすると思うとる。みてみい、わしはお前の足を踏んでへんのにお前下つているやないか。お前は部落のもんこわいと思つているからそないするんじや。」と大声でどなつた。その間、岡野ら三名は参集者の一部から「こらしやべれ」「差別者」などと罵声を浴せられた。被告人らは岡野ら三名に対し「何じや、お前ら座つて。立て。」「こら差別者、立て。」などと言つて同人らがかけている椅子を蹴りつけ、同人らを起立させるなどした。

午後七時三〇分ころ休憩に入り、岡野、玉石が用便に行つたが、解同員一、二名が同行して監視した。間もなく糾弾が再開され、同所に立寄つた解同大阪府連合会副委員長西岡智が岡野らに対し「解同は差別者に対しては徹底的に糾弾する。糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ。差別者は日本国中どこへ逃げても草の根をわけてでも探し出してみせる。糾弾をうけてノイローゼになつたり、社会的に廃人になることもあるぞ、そう覚悟しとけ。」などと告げた。

泉海は、午後九時四〇分ころ、呼びよせた大阪市教育委員会同和教育指導室長森田長一郎の責任をもはげしく追及し、同人をして岡野らの発言を得させようとしたが、同人らは応じなかつた。被告人は、岡野らに対し、「お前らいつまでたつたら白状するのや、お前らは骨のある差別者や。ともかく徹底的にあしたでもあさつてでも続いて糾弾する。」と言つた。

午後一一時ころ、岡野らの家族、友人、弁護士三名、日本共産党関係者らが矢田市民館に来て被告人らに対し岡野らの釈放を要求し、これに対し、泉海が日本共産党大阪府委員会東住吉地区委員と話し合い、解同と日本共産党との各大阪地区の責任者のトップ会談を開いて話し合つて解決しようと申し入れたが、終局的には日本共産党側がこれを拒否したため、岡野ら三名の釈放は直ちには実現しなかつた。

被告人らは、翌一〇日午前一時ころ前記トップ会談のため矢田市民館に来た解同大阪府連合会委員長岸上繁雄及び同連合会書記長上田卓三らと協議の結果、当日の糾弾集会を一応終ることを決め、午前二時四〇分ころ、散会し、岡野ら三名は同館を出た。

以上要するに、被告人は、泉海ら他の解同員と共謀のうえ、岡野、金井をその意思に反し有形力を行使して連行したうえ、矢田市民館においても、岡野、金井、玉石の三名が、いずれも、明示的に釈放の要求をしなかつたにしても、きわめて長時間にわたり、その任意の意思によつて自由に同館から退出することを著しく困難ならしめる状況を作出したことが明らかである。

そして、原判決は、被告人らの本件行為が監禁罪に該当するようにも考えられるとしながら、本件文書の内容、本件の背景事情、被害者とされる岡野らの背信行為等本件に至るまでの経緯、被告人らの本件行為の動機、目的及び手段、方法に照らし、右行為にはいささか行き過ぎではないかと認められる点がないではなく、今後の自重に期待するものがあるが、右行為はいまだ可罰的評価に値するものとは認めがたい、と判示する。

なるほど、原判決もるる述べるとおりの従来の部落差別の実態、矢田地区における教育の貧困、大阪市における越境入学の現状等に照らすと、本件文書は、仮に、これを書いた木下浄の主観的意図が教師の労働条件の改善にあつたにせよ、同和教育及び越境入学解消にともなう過員、転勤の問題と教師の労働条件とを対置させ、それらが共に重要であるというのであれば格別、岡野、木下らの当審証言も認めるとおり、教師の労働条件を悪化させている原因が専ら同和教育及び過員、転勤の問題にあると容易に読みとれる内容になつていることが明らかであるから、直接差別自体を表現する文書とは断じ難いが、部落解放に重要な役割を果すとされている同和教育の推進を阻害し、結果的に差別を助長することにつながりかねない内容を包含するものであると認められる。また、原判決も指摘するとおり、差別というものに対する法的救済には実際上限界があることにかんがみると、被差別者は、法的手段をとることなく、みずから直接、差別者に対しその見解の説明と自己批判とを求めることが許されよう。それが糾弾と名づけられるか否かは格別、人間として差別に対し堪え難い情念を抱く以上、法的秩序に照らし相当と認められる程度を超えない手段、方法による限り、かなりの厳しさを帯有することも是認されよう。これを本件についてみるに、たとえ前叙のとおり本件文書が差別助長につながる内容を有する文書とはいえ、被告人らが岡野らに対しその見解と自己批判とを求めるために、本件のように、有形力を行使してその抵抗を排するなどして連行し、かつ多衆の面前で激越な言動に出、きわめて長時間にわたり、退出することを著しく困難ならしめる状況を作出したことは、本件被告人らの行為の動機、目的の正当性を十分考慮に入れても、その手段・方法が法的秩序に照らし相当と認められる程度を明らかに超えたものというべく、さらに本件行為の補充性について考えてみても、いわゆる差別者に対してその見解を改め、自己批判を求めるためだけであれば、本件の如き「糾弾集会」が唯一無二の方法であつたとは認めがたく、本件行為が真にやむを得ざるに出でたるものとは到底認定できない。また糾弾が「他人へのみせしめ」の目的でなされるということになれば、糾弾集会という形の糾弾はきわめて有効な手段となるかもしれないが、それはいきおい過酷となり、も早私的制裁の域に入るのであり、法の到底容認し得ないところである。さらに被害者岡野らが、自由に退出することを著しく困難にされたのは、きわめて長時間にわたるものであり、その間集つた解同員らから激越な調子で罵詈雑言を浴びせられ、心身ともに疲労困憊の極に達したものであつて、被告人らの本件行為によつて惹起された法益の侵害は決して軽微なものであるとは言い得ない。要するに、本件の具体的態様に徴すれば、本件の背景事情、経緯、動機、目的等、原判決説示の諸事情を充分勘案しても、被告人らの行為は、社会的に相当と認められる程度を明らかに超え、法秩序全体の見地から、いまだ可罰的評価に値しないとは到底いえない。その他原審及び当審において取調べられた証拠を仔細に検討しても、被告人が本件行為に出ることもやむを得なかつたもので罪責を阻却するのが相当と認めるに足る資料は見当らない。そうしてみると、被告人の本件行為について、右判断と異なり、違法性を阻却し罪とならないと認め無罪を言渡した原判決中被告人に関する部分は、違法性に関する法令の解釈、適用を誤つたものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて刑訴法三九七条一項、三八〇条により原判決中被告人に関する部分を破棄することとし、同法四〇〇条ただし書に則り更に次ぎのとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は部落解放同盟大阪府連合会矢田支部長であるが、同支部では、昭和四四年三月に施行された大阪市教職員組合東南支部の役員選挙において書記次長に立候補した木下淨が同組合員に配布したあいさつ状の内容につき検討した結果、これが差別文書であると判定し、同人及びその立候補すいせん人らに対し、その見解の説明と自己批判とを要求し、糾弾活動を始めていたところ、同人らが約束を違え糾弾集会に出席しなかつたため、同人らを多数の解同員とともに糾弾するため、当時の解同矢田支部書記長泉海節一を含む解同員約一〇名と共謀のうえ、前記すいせん人らである矢田中学校教諭岡野寛二、同金井清の両名をその意に反してでも矢田市民館における糾弾集会に連行しようと考え、昭和四四年四月九日午前一〇時五〇分ころ、大阪市東住吉区矢田住道町八八六番地大阪市立矢田中学校職員室において、椅子に腰をおろしていた岡野に対し、泉海が同行を促すようにして腕をつかみ、同時に他の解同員二名が岡野の両手を左右から引張つて、足をつつぱり抵抗する同人を立ち上らせたうえ、もはや抵抗をあきらめた同人の両脇を抱え背後から押して校門まで約三〇メートルの距離を連行し、付近に駐車中の自動車に、泉海が乗車を促すとともに岡野を押して後部座席に乗車させ、みずからも同人の左側に乗り込んで発車し、他方、岡野と同じく職員室において椅子に腰をおろしていた金井に対し、被告人を含む解同員三名が洋服の肩辺りを引張つたり、両腕を引張つて立ち上らせたうえ、被告人以外の解同員が抵抗をあきらめた金井の腕を引張り、背後からズボンのベルトをつかみ押すなどして校門まで連行し、付近に駐車中の、他の自動車に、被告人以外の解同員一名が金井の腰を押して乗車させ、被告人を含む解同員四名が乗り込んで発車し、岡野、金井をしていずれも脱出を不能ならしめ、同区矢田矢田部町本通七丁目六番地矢田市民館まで連行したうえ、午前一一時ころから同館二階第三会議室において、被告人を含む解同員約一三名は、岡野、金井の両名に対し、糾弾を始め、右両名が約束を違えたことを難詰し、その理由を追及し、泉海が大声で右両名を非難攻撃するとともに前記木下淨のあいさつ状が差別文書であることを認めるよう自己批判を要求し、また、午後二時三〇分ころ、糾弾場所を同館三階大集会場に移し、被告人は、地元住民ら約三〇名の面前において、右両名を難詰し、右同様の自己批判を要求し、更に、午後四時ころ、漸次その数を増して約七、八〇名になつた地元住民らの面前において、そのころ加美中学校から連行されてきた同校教諭玉石藤四郎に対しても糾弾しようと企て、泉海らと共謀のうえ、まず泉海において右玉石をはげしく非難攻撃し、被告人らは玉石に対し、前記木下淨のあいさつ状が差別文書であることを認めるよう自己批判等を要求し、玉石が沈黙を続けるので、泉海が玉石の胸辺りを押すなどし、被告人も玉石の足近くの床を音高く踏みつけ同人の足を踏みつけるような気勢を示すなどし、引き続き、翌一〇日午前二時四〇分ころに至るまでの間、最盛時、同所に参集した教職員約一五〇名を含む約二五〇名の多衆の面前において、被告人が岡野ら三名に対し、徹底的に糾弾する旨言つて威迫を加えるなどし、岡野、金井、玉石の三名をしていずれもその任意の意思によつて自由に矢田市民館から退出することを著しく困難ならしめ、もつて右三名をそれぞれ不法に監禁したものである。

(中武靖夫 吉川寛吾 西田元彦)

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